Nishinyの商標・ブランド日記

商標・ブランドの情報です。弁理士の西野吉徳のブログです。

商標管理(日本生産性本部)(その13)

資料Ⅲ 商標に関する論文

この本の最後です。「商標の使用許諾」というタイトルのアーサー・L・ナザンスンさんの論文と、「混同と消費者の心理」という特許局副長官のダフネ・リーズさんの論文です。

ただ、判例はときどき引用されていますが、先行論文の引用がありませんので、通常の論文ではなく、日本人のための寄稿文、法律的な随筆と考えた方が良さそうです。

特別に、ミッションのために書いてくれたので、載せたものと理解しました。

 

商標の使用許諾

使用許諾を認める理由

まず、商標の歴史は、中世の商人標(merchant's mark:商品がその商品を表示するために自発的に用いたもの)と生産標(production mark:生産が生産にかかわる商品に付することを強制されたもの)があるとします。

生産標が今日の商標につながるとあり、商人標は複雑な流通機構のもと、なくなったしたとあります。

生産標は、商品の出所を示すもので、品質に欠陥があった場合に、責任を負わせるためのものとあります。

 

その後、商標は、自他商品の識別標識とされるようになり、その文言が示すように、譲渡やライセンスは、否定されます。

しかし、広告や通信の発達により、商標が全国的となり、商標所有者だけの使用では限界があり、シロップ製造業者(※コカ・コーラ、サンキストの例でしょうか)のように、ライセンスが経済的と認識されるようになったとあります。

そして、生産標の概念の転換があり、同じ商標を付した商品の品質は同じであるということを保証するという品質保証の話が重要となり、これがあれば、ライセンス可能とされるようになりました。

 

なぜ、子会社にまで契約が必要か?

ズバリ、国有化や独禁法問題とあります。国有化は海外の会社で問題なり(※戦時接収や共産化などです)、国内では独禁法違反で意に反して切り離されることがあるため、とします。(※国有化や独禁法を説明してくれている文章をはじめて見ました)

 

商標権者のコントロールの性質

単に資本関係があるだけではコントールとならず、また、外部的に判断できるものであれば、サンプル検査や試験でコントロールできますが、シロップの供給の場合は、外部的コントロールは可能ですが、衛生条件や製造工程など、より内部的管理業務までコントロールしないといけないとあります。

ただ、特許と商標がセットになった場合は、コントロールありとされたようです。(※この場合、特許権者は品質に合致したものを製造する面倒を見ないといけないようです。技術導入ですね。)

 

現実のコントロール

契約書上の紙のコントロールでは十分ではなく、製品の品質チェック程度では、コントロールありと言えない場合があり、より現実的なコントロールのために、覚書を交わす必要があるとします。

 

 

混同と消費者の心理

 冒頭に、1942年のFrankfurer判事の意見の引用があり、商標はシンボルであり、商標は消費者が自ら望んでいるものと信じているものを選ぶようにさせる販売上の方法であり、一旦消費者の心にそのマークのついた商品の望ましさを伝えると、商標所有者はかなりの価値を得たことになり、これは広告手段によって達成されるものであるとして、商標の保護とは、シンボルの心理的機能に対する法律的認識であるというような説明があるとします。(※今日のマーケティングのブランド論とほぼ同じものです)

 

「混同を生じる程度に類似した」(confusing similar)というフレーズは、良く使われるが、しかし、法律上は、1981年法は、「公衆の心に混同もしくは誤認を生ぜしめ、または消費者を欺瞞しそうなほど、他人の合法的商標に類似した」マークといい、1905年法は、「公衆の心に混同もしくは誤認を生ぜしめ、または消費者を欺瞞しそうなほど、他人によって所有され使用され、かつ使用されている登録もしくは、知られた商標に類似したマーク」、1946年法(※現行法)にも、「混同を生ずるほど類似した商標」というフレーズはないとあります。

 

問題は、商標自体が、「混同を生じるほどに類似していること」ではなく、Frankfurther判事の考えからすれば、連想するシンボルを使用することは、公衆の心に同一の心理的反応、印象を生ぜしめるので、保護されるのだとします

 

そして、タバコのCamel商標が、双方タバコと関係ない商品の、ライターに使用された場合と、懐中ナイフに使用された場合の心理的な反応、連想の違いを提起しています。

 

最後に、商標権は抽象的に存在するのではなく、特許局における登録は、現実の商標の使用者の権利を反映させるものであると締めくくっています。

 

コメント

前半の論文では、もともと、責任を示す生産標であったものが、商標に変化し、自他商品識別標識(≒出所表示)となり、よって譲渡や使用許諾が禁止されたが、その後、品質保証があれは、ライセンス可能とされるようになったとあります。

 

後半の論文は、1942年の判決中に、今日のブランド論(ブランド価値の議論)にちかい議論を紹介し、

  • 商標はシンボル
  • シンボルの心理的機能に対する法律的認識
  • 登録は、現実社会を映す鏡

というような説明が続きます。

架空の権利範囲を議論している日本とはだいぶ議論が違うなと思います。

 

以上が、この本の内容です。なかなか、面白い内容でした。

 

昭和34年法も、成立から60年経ちましたし、インターネットの普及で商標の使用状態が丸裸になっている時代(アメリカのコモンロー調査レポートがタダで入手できる時代)です。

権利と現実を別物と考えるのではなく、現実を直視し、現実をベースにした商標権という体系に移行してもやっていけるようにも思います。

そうなると、後願排除や、禁止権の基礎にある、類似の概念を完全に変更する必要があります。

不正競争防止法との整合性は、過去、商標法の優先適用の議論があり、その後、請求権競合で処理されましたが、本来は、一体成型すべきです。

ドイツでさえ、使用による商標権を認めています。あるいは不正競争防止法を改定し、商標権の優先適用が必要だと思います。