Nishinyの商標・ブランド日記

商標・ブランドの情報です。弁理士の西野吉徳のブログです。

日本商標法の未来のための方策検討(その12)

商標登録要件における公序良俗表現の自由ー非道徳的・卑わいな商標等の取り扱いを中心にー(その2)

 

金子敏哉准教授の論文の続き、国内法の部分を読んでいます。

 

まず、現在の審査基準が紹介されており、第3条の6の箇所で、(1)~(5)の4条1項7号に該当する場合があり、若干の事例(Anne of Green Gables、救急車のサイレン、指定暴力団の標章など)の説明があります。

次に、12条の2第2項但し書きの、公序良俗違反で出願公開公報への掲載がされない場合の説明があり、

4条1項7号との差異が説明されています。

 

そして、①構成自体が非道徳的、卑わい、差別的、きょう激若しくは他人に不快な印象を与えるような商標、②指定商品・役務への使用が社会公共の利益に反し、社会の一般的道徳観念に反する場合について、審判決例が説明されています。

仏陀事件、聖母マリア事件、JESUS事件、マルキン事件、カルピス事件、御用邸事件など)

 

審判決のまとめとしては、米国最高裁のケースの日本法への当てはめからは、明らかに卑わいな商標のみが4条1項7号に該当するとしないと、見解差別を行うものとして、法令が違憲と評価されるとあります。

(非道徳的、差別的などの商標は、3条1項6号で対応すべきことが示唆されています。)

 

問題は、課題のある商標が、商標として使用することができても、登録商標として使用することができないことにあり、この意味で、表現の自由に対する制約になり、合理的でやむを得ない限度の制約かどうかが問われるようです。

 

米国のfuct事件の判決について、大林啓吾教授の論文から「商標制度の本来的目的に直接資するわけではない要件を課すことが表現の自由との関係で許されないと判断されたといえる」とし、日本商標法4条1項7号も、商標制度の目的との関係が問われるという部分を引用しています。

 

最後に、この論点は、まだまだ検討が続くとあります。

 

コメント

商標登録の取得を、国家による商標使用の許可、すなわち、お墨付きと考えるのか、商標制度の目的、存在意義から演繹的に考えるのか、考えさせられます。

 

表現の自由と関係では、昔の米国判例の立場である、商標登録は取得できなくても、商標自体は使用できるから、表現の自由は害されないというのは、金子准教授の論文では、登録商標として使用できないことが、表現の自由の制約になっているということからすると、やはり問題なのでしょう。

 

結局、特許庁の審査官が良かれと思って、登録拒絶をすることが、良いのかどうかということになります。

 

商標登録されても、反道徳的な、差別的な、道徳観念に反するような商標を付した、商品・役務が社会に認められ、良く売れることは無いと思います。あまり過保護にせずに、放置しておいても良いのかもしれません。

 

商標登録を、商標の使用が可能なことの、特許庁の「お墨付き」という理解が、まだまだ一般的です。しかし、それは異議申立がなく、無効審判が請求されることもなく、また、無効理由が内在していない商標についてだけ言えることです。

最近のように、無効が特許庁ではなく、裁判所で判断できるようになると、更に、商標登録があっても旧不正競争防止法6条の適用除外が無いことを考えると、特許庁の「お墨付き」げある意味は、以前にくらべ、差し引いて考える必要があります。

 

今は、特許庁に登録されたからと言って、問題ない商標という訳ではありません(カルビス事件などもそうです)。

企業の商標担当者には、特許庁で登録できるかどうかの判断とは違う、一つ上の、社会的な判断が求められていると思いました。